ここ数年常々思うことがある。
作品って何だ?と
残すことに意味があるのか、
だとして、その意味付けは受け手側の問題。
故人となった身内に書道家がいる。
この世を去ってもう随分になるが、生前沢山の作品を残していった。
僕も書道には多少の覚えはあるものの、達人の域に達したこれらの
作品の価値は正直分からない。
でも価値は分からないなりに、筆圧や筆跡を鑑賞し、故人を想うくらいの
感性は僕にも残されている。
ただ、僕以外の書道に覚えがない他の身内連中にとっては、
極論、ただの紙切れであり、語弊を恐れず言えば、ゴミ同然なのだ。
ただの紙くずの山だ。
僕はその人が作品を生み出す為に長年愛用した道具についても
同じことを思う。
道具はもはや、道具ではなく、それ自体が作品のようなもの。
僕でいえば、僕が愛用しているドラム、これはもう道具ではなく、
相棒であり作品でもある。
しいて言えば、僕が使うことで作品になる。
どこかに残っているであろう
この書道家が愛用したであろう筆や硯、文鎮などの道具は、
残された遺族にとっては、紙切れ以上のゴミとなる。
金にでもなればまだしも、書道をたしなまない人間にとっては
ただのかび臭いゴミでしかない。
そう考えると、作品とは一体何なのだろう?
と放置するつもりは毛頭ない。
このテーマを追求することこそ、アーティストたる所以だと思う。
僕に断固たる明確な答えが出た時に、また話そうと思う。
僕の作品、愛用しているタイコや道具、僕が地獄へ行ったら、
一体どうなるのだろうか。
この遠い身内のように、ゴミ同然に扱われるのだろうか。
いや、少なくとも僕の生きている内は、この書道家の作品を鑑賞すること、愛でること、
もちろん飾ることは厭わない。
もしかすると、ガキの頃、僕が書道を聞きかじった本当の意味は、これらの作品を
守ることだったのかもしれない。
そう考えると、人生無駄なことは何もない気がしてくる。